ビザーマジックの手順研究

現代的アプローチによるビザーマジックの考察

そもそも、ビザールというものは。


なにも、鼻に釘を刺して血を吹き出したり、針を飲み込んで喘ぎのたうちまわることがビザールというわけではない。

真面目な人はその現象の形態様式がおどろおどろしければビザールと思っているのかもしれないが、それは単なるこけおどしであって、としまえんのお化け屋敷のようなものである。こういったものはわたくしの目指すビザールとは程遠いものである。

そもそも、わたくしの理想とするそれは人をエンターテイメントとして楽しませるものではない。真のビザールは、世界の滅び(=死)を『救い』として享受させるものでなければならない。仏教でいう渇愛という考え方が、それに近いのではないかとわたしは考える。

五感を刺激したい。存在したい。破壊したい。この三種の欲求が、渇愛というものらしい。
生と死は表裏一体だ。痛みは生存を感じるために重要な機能であり、破壊は生を求めるがゆえに行う衝動なのだ。

マーラー交響曲第2番『復活』の最終楽章の詩にはこのようにある。

 

Was entstanden ist, das muss vergehen.

生まれてきた者は、必ず滅びなければならない。

Was vergangen, auferstehen!

滅び去った者は、必ず復活する!

Hör' auf zu beben!

震えおののくのをやめよ!

Bereite dich zu leben!

生きるための準備をせよ!

Mit Flügeln, die ich mir errungen,

私が勝ち取った翼によって

werde ich entschweben.

私は舞い上がるだろう。

Sterben werd' ich, um zu leben!

私は生きるために死ぬのだ!

Aufersteh'n, ja aufersteh'n

復活する! そう復活するのだ!

wirst du, mein Herz, in einem Nu.

汝、私の心よ、  一瞬のうちに

Was du geschlagen,

汝が打ち倒されることこそが

Zu Gott wird es dich tragen!

汝を神のもとへと運ぶことになるのだ!


注)http://classic.music.coocan.jp/sym/mahler/mahler2text.htmから引用

 

死に至るような極限の苦痛は、その人に究極の喜びを与える。人間の脳は死を受け入れるために、苦痛を幸福に変える。生という錯覚のために、その死の苦痛を快楽に転倒させる。人間はその瞬間にこそ、『存在している』という実感を得るのだ!

よって、わたしたち人間は、死ななければ生を感じることができないということだ。

だからと言って、人を救うために他人を殺せとか言っているのではない。

思い上がるな!

人は人を救うことなどできない。死は究極的に孤独だ。自分だけがただ一人、死の前に立って全ての答えを知る権利を得るのだ。死はわたしだけのものだ。わたしを救いたい思うものは愚かだ!

重要なのは、死の本質を残酷なまでに直視することである。死にたくないと叫ぶ姿を侮辱してはならない。切腹をするサムライのように、死に様を格好つける必要はない。他者からの視線を意識した死は無意味だ。それは死の本質を見誤っている。死というのは全てをゼロにする。その人の外見も。中身も。重力も。善も悪も。愛も。罪も。すべての存在と時間をゼロにする。そこに絶望してはならない。ビザールはその絶望の先にあるはずだ。