ビザーマジックの手順研究

現代的アプローチによるビザーマジックの考察

マジックにおける笑いについて

笑い。

マジックにおいてこのスパイスは重要だと思われる。なぜなら、マジックの不思議さというのは人の意識に恐怖のタネを植えるものだからだ。人間は分からないものに恐怖を抱き、反射的に拒絶を示す。まさにマジックの不思議さというのはその『分からないもの』に他ならない。人間がこの恐怖に打ち勝つためのもっとも手っ取り早い手段こそが諧謔なのである。

マジックは不思議である。不思議とはその人間の持つ常識の外にある未明の現象を見せられた時に示す印象である。したがって不思議という印象は恐怖を惹起する。人間はこの不思議という恐怖に対応するため、ほとんどの場合は「解明する」か「攻撃する」か「背を向ける」かの行動に出る。一部の変わり者が、この不思議な現象(恐怖)に魅了されて厚く信仰するが、それが「マジシャン」という連中なのだ。

不思議な現象が意識の深層に恐怖を惹起していると仮定するならば、その現象の連続は、早々に観客を疲弊させる。そして恐怖から生じる緊張によって疲弊した観客は、マジックという現象を不快なものと認識するのである。

それを解決するために、笑いが有効だと考える。不思議=恐怖を観客自身の『笑い』という行為によって打ちのめさせれば、観客は負の感情に勝利することができる。理解できない現象によって生じた恐怖を笑い飛ばすことによって満足し、マジックは楽しいものとなる。マジシャンと観客は互いにwin-winの関係となるのだ。

さて、実践について話そう。マジックの演者としてもっとも困る反応が「攻撃される」「逃げられる」である。これは言うまでもない。マジックが成立しない。マジックは独り相撲となり、観客にそのような態度を取られた時点でマジシャンは孤独で惨めな道化師と化す。マジシャンは観客よりも弱いということをまず認識すべきだ。マジシャンは観客の反応によって成り立っている。よってマジシャンが観客の感情を思いのままに操っていると勘違いすると、いずれ手痛い目にあう。

そういうわけだから、マジシャンは観客を威嚇してはならない。力(不思議さや、テクニック)でねじ伏せようとしても無駄である。なぜならマジシャンの力なんてものは、妄想オタクが脳内で力を誇示しているのと同義であり、観客の現実の力の前ではあっさり打ちのめされる。

こうして、マジシャンがすべきことは次の二択に絞られる。不思議=恐怖を観客に提示したときに、「解明させる」か「恐怖の受諾」という選択をとってもらうということだ。マジックは観客がゲームに乗ってくれないことには成立しないのだ。観客を土俵に載せるには上記の二択しかない。

まずは前者の「解明させる」という手段。これは即効性があり実に効果的だ。しかしご存知の通り、種明かしはマジックの世界において御法度とされている。なぜならマジックの本来の目的、すなわち観客を不思議がらせることを根本から否定してしまうからである。

しかし、ここで忘れないでほしいことがある。マジックの本来の目的である不思議がらせるという行為は、相手の無意識下に恐怖を抱かせることであり、不快なものなのだ。大体のマジシャンはこのことが頭からすっぽり抜けているようである。

誰もがホラー映画が好きではないのと同じように誰もが不思議を好むものではない。マジシャンの不思議な行為というのは、観客にとって根源的には毒であることを忘れてはならない。

この毒を完全に解消するのが「ネタバラシ」であり、人間は本能的にネタバラシを求める。つまり、脊髄反射的にネタバラシは良くないという方々は、まずマジックのもたらす負の面を直視すべきなのだ。

種明かしをしてほしいという気持ちはマジックをしない人間(不思議=恐怖を受け取らされる側)にとっては完全に是とされるということを知るべきだ。

しつこいようだが、マジシャンのやっていることは、そもそもが本能が拒絶するような行為なのだ。観客を不思議がらせるというのは、極めて不快な行為だ。マジシャンの視点でもって「マジックは無条件で良いもの」だと思わぬことだ。それはマジシャン側の勝手な都合である。

といってしかし、わたしは種明かしを肯定しているわけではない。なぜかというと先のブログでも述べているがわたしの『目的』が観客を恐怖に引きずり込むことだからである。

そのためには自身の意志で『恐怖の受諾』を選択させる必要かある。

この恐怖というのは不思議なもので初期段階では人間は本能的に恐怖を排除しようとするが、ある一定のレベルに恐怖心が達すると、あえて恐怖に突っ込んでいくようになる。人は耐えられぬ恐怖と対峙した時に言い知れぬ高揚感を覚える。そしてバンジージャンプをした時のような快感を知ると、それがやめられなくなる。

わたしは観客をそこへ誘うことを目的としている。

しかし、いきなり観客にバンジージャンプをさせようとしてもそれは無理だ。拒絶されてしまう。まずは恐怖を受け入れてもらうために、その恐怖を別の感情にすり替えておびき寄せる必要がある。

それが『笑い』であり『楽しませる』ということにつながるとわたしは確信している。

 

魔法使いの弟子になるということは

弟子とはいいものだね。実に。

これは例えばの話だが、仮に、もしわたしが性愛に飢えていたとしよう。するとまあ、この弟子を募集するということは、大義名分に自分好みのパートナーを。ってゆーか、エロいことができそうな相手を見つけるための最良の手法になるわけだ。

「きみを将来大物の手品師にしてやるからぼくと一緒のベットに入りなさい」

岡田斗司夫先生なんかはそういうことをやって、面白いことになってましたなあ。っていうか、この世の中、実際にそういうことをやってるやつはわんさかいるわけでしょう?

危ないんじゃないの? 軽い気持ちで見ず知らずのおっさんの弟子なんかになるなよ。

ああ、でも正味の話、わたしも弟子募集したいわあ。

わたしを愛してくれて、奴隷のように働いてくれる弟子をね!

ぎゃはははは!

ビザーマジシャンの現実②

警備室。午前零時。液晶テレビに映る国営放送を見ながら、日付が変わるのを確認しました。
仮眠の時間です。防犯監視装置のスイッチを入れます。輩が闖入したときに警報が鳴るように。
この広大な館内にわたし一人しかいないというのは、よく考えてみれば、めちゃくちゃ恐ろしいことだと思います。
こんな女装趣味のあるマジシャンのオカマ野郎に、オフィスビルの警備を一人でまかせても大丈夫なのでしょうか? 仮眠の時間に暴走族などにビル内に入られて襲われたらどうするのでしょうか?
しかし、それでもいいのです。きっとこの業界は人手が足りないのです。
わたしは、ジャージに着替えて、警備室の電気を消し、ベッドに潜ります。外から騒音が聞こえてきます。賊がバイクをブンブンいわせています。あの人らはいったいなにを喚いているのでしょうか。どうしてご近所さんに迷惑をかけたがるのでしょうか。
わたしは目を瞑り、眠りに入りました。と、思ったら、防犯監視装置がけたたましく鳴り響きました。侵入者です。わたしは飛び起きて警戒棒を身につけ、ブザーが反応した位置を確認しました。エントランスでした。急行します。金髪長身の族が暴れています。膝がガクガクに震えだして止まりません。とまれ! 頼むから震えないでくれ!
エントランスの自動ドアが金属バットでぶち破られてしまいました。やつらがこちらへ突っ込んできます。わたしは、距離をとろうと一歩下がります。が、すっ転んでしまいました。あっという間に族に囲まれてそしてわたしはヤンキーどもにガスバーナーで熱せられた鉄パイプでケツを掘られたあげく、眼球にアイスピックを突き立てられて、死んでしまいました。

 

と、いう感じで全然眠れないと、上記のような妄想をしてしまいます。ああ、恐ろしい。気を紛らわせたい。つまり、オナニーしたいです。でも、さすがに職場のベッドの上でオナニーしたりはしません。わたしは去勢して本当に良かったと思いました。去勢していなければ、本当に職場のベッドでオナニーしていたと思います。
わたしは、邪念を振り払うため、ダンゴムシのように丸まってベッドのなかで眠気が来るのをひたすらに待ちわびることにしました。
「誰か! こんなわたしを断罪してください!」
と、わめき散らしたいのを我慢しながら。
 
目覚まし時計が鳴っていました。朝の五時です。死にてえ。と、思いながら起き上がって、パンツ一丁で洗面所へ行こうとして、途中で慌てて引き返しました。トイレへの導線には監視カメラがあるのです。監視カメラの画像は三週間データとして保存されるので、万が一あとで見返されてパンツ一丁で徘徊していたことがバレるとヤバイのです。ちくしょう、めんどくせえ。しぶしぶ、わたしは警察官のコスプレみたいな制服を着ます。なんで、こんな警察ごっこをしなきゃならんのでしょうか。うぜえ。と、苛立ちを感じながら、多少の反抗をアピールするためにボタンを留めずシャツは出しっぱのまま、トイレの洗面台へ向かいました。冷たい水で顔をバチャバチャ洗います。頭が冴えて、視界が広がります。鏡に映る水浸しの顔は、青白くて、まるで能面のようです。およそ人間味を感じることのできない無機物のような顔をしていました。

五時四十五分。外周巡回です。入り口付近に妙齢のババアがしゃがみ込んでいました。締め切られたエントランスの自動ドアの前でタバコを吸っていたらしく、ケシモクが散乱していました。わたしはババアに対して、「敷地内だから入らないでください」と、言いました。にもかかわらず、彼女は無視を決め込んでタバコを吸い続けています。
「あのう、このビルの警備のものなんですが、ここは喫煙所ではございません。敷地内ですので、立ち退いていただけますでしょうか」
あえてなんの抑揚もつけずに冷淡な感じで発音すると、化粧の濃いその淑女はこっちを見上げて、「は?」と、疑問形の顔をしました。わたしはついムッとして「立ち退いてください」と声を低くして感情的な声を出してしまいました。すると淑女が、にへっ。と笑って、「警備のくせに」と、ボソッと言ったのです。警備のくせに。警備のくせに。警備のくせに?
「おい、ババア。今、なんつった?」
わたしは、ニコニコしながら警戒棒を腰から抜いて、ビュッと振って伸ばしました。
ババアがギョッとした顔をしました。
「おい、ババア、なんども同じこと言わせんじゃねえよ。あと、ファンデーションどんだけ塗ってんだよ。ピエロか、ババア」
わたしの心はどうしてこんなに醜いのでしょうか。みんな、このババアのせいです。わたしの忠告を無視して、敷地から立退かないせいなのです。わたしは警戒棒をババアの脳天に振り下ろします。バコン。ああ、いい音。このまま頭蓋骨をグチャグチャに砕いてやろう。錆び付いた金属の棒をなんども叩きつけてやります。死にやがれクソババア。
ババアは万歳して、血みどろになっている頭をカバーしようとしていました。此の期に及んで、死にたくないってのか? ダメだね。おまえはここで死ぬんだよ。と、わたしはその手の上から警戒棒を叩きつけます。ボキッっと指が折れたようで、指の先端が紫色になりました。婆さんは「や」と、言って、地面に倒れ伏して丸まりました。わたしはそういう可哀想な被害者ぶった態度にムカッとして、婆さんの下顎に警戒棒を叩きつけてやりました。「や。じゃねえよ。ババア。おまえが悪いんだぞ、ババア。警備のくせになんていうから。ババアのくせに。おれだってこんな仕事やりたくてやってるわけじゃねえんだよ。おれはなあ、本当は才能のある手品師なんだよ。なんでババアにバカにされなきゃなんねえんだよ。おい、ババア。ババアの職業はなんだ? おい、答えろや!」
婆さんは何も答えません。「ひふっ、ひへっ」と喉から音を出すだけです。ババアのくせに。ババアが。ゴミが。
自動ドアのガラスに、血まみれになったわたしの歪んだ笑顔が映っています。

 

目覚まし時計が鳴っていました。朝の五時です。人を傷つける夢を見たのは初めてでした。最悪な気分です。全然眠った気がしない。死にてえ。マジ、死にてえ。制服を着ます。シャツをきっちりズボンにしまって、ボタンは全部留めます。洗面所へ行きます。顔を洗います。浮腫んでいました。醜い。唇の端が卑屈に垂れ下がって気色悪い。ぶん殴ってやりたい。

ボーッとしながら、巡回。内周巡回後、電気メーター、水道メーター、ガスメーターを記録します。終わったら、外周巡回。先週はエントランス付近に妙齢の女性がしゃがみ込んでタバコを吸っていたのですが、今日はいませんでした。そうなのです。先週、見かけたときにおばさんに注意したら、「すみません。ご迷惑をおかけして」と言って、すぐに移動してくれたのです。彼女は「警備のくせに」なんて酷いことは言っていないのです。なのに、どうして、わたしは、あんな夢を見てしまったのか。きっと、「警備のくせに」なんて、警備の仕事をバカにしているのは、わたし自身なのです。
わたしは警備員という職業をバカにしているのです。
どうして、ビル警備のお仕事を馬鹿にしているのでしょうか?
給料が安いからでしょうか? 夢がないからでしょうか? 将来性がないからでしょうか?
けれども、たとえ給料が安くても普通に生活はできます。漫画や小説を買ったり、映画を見に行く余裕だってあります。確かに警備という職業には夢はないかもしれません。一攫千金を夢見たり、世間的に有名になったりすることはできないでしょう。昇給も一年で千円くらいだし、ボーナスも寸志みたいなもので、わたしの勤める会社には退職金なんてものもないし、将来性なんかありません。でも、将来性ってなんなんでしょうか? 自分が明日も生きている保証があるのでしょうか? 明日生きているかも分からないのに、将来のことを気にする必要なんてあるのでしょうか? いつ死ぬか分からないのに、将来が約束された仕事をするってことはそんなに大事なことなんでしょうか? 
人生において唯一約束されたことがあるとすれば、それは自分がいつか死ぬっていうことだけです。いつか絶対必ず死ぬのに、どうしてわたしたちは生きるために働いているのでしょうか?

ああ、めんどくさい。もう、どうでもいいや。今はとにかくコンビニのシュークリームが食べたい。

こうして、わたしは朝の業務を終え、午前八時三十分。交代要員のおっさんと引き継ぎをします。ニコニコしながらロッカーで着替えます。制服にファブリーズを吹きかけます。お先に失礼しまーす。と、笑顔で言って外へ出て、日の光を浴びます。眩しい。世間はゴールデンウィーク真っ只中。人通りは少ないです。コンビニに立ち寄ってカスタードシュークリームを買います。休憩コーナーでムシャムシャ食べます。美味しい。死んじゃいそうなほど美味しい。幸せな気分になってコンビニを出て、駅まで歩きます。誰かと肩がぶつかって、わたしがチッと舌打ちをしようとしたら、相手がすみませんと謝ってきて、恥ずかしい気持ちになりました。ちくしょう。謝るな。この怒りをどこへぶつけたらいいんだ。イライラしながら、約六分で駅に到着しました。
電車に乗ります。空いています。端っこに座ろうとして、ふと、端っこに座るタイプは出世しないと誰かが言っていたのを思い出して、じゃあ、真ん中に座るか。と、思ったのですが、出世するために電車の座席の真ん中にドッカリ座るっていうのも貧乏くさい気がして、やっぱり端っこに座りました。
やはり、車両の接続されたあたりの末端席は落ち着きます。左隣には誰も座られることがないという安心感があります。また、この位置であれば、ボーイズラブな漫画のエッチなシーンも覗かれにくいし、誰にも邪魔されない。世界はわたしだけのもの。
わたしは読みかけのBL漫画をスマホで開きました。幸せでした。仕事あがりに読むBLは格別です。と、誰にも邪魔されずに楽しんでいたのに、途中駅で「ノリスケの野郎ぶっ殺してやる」と、ワケの分からんことを早口でぶつくさいってるおっさんが車両に入ってきて、わたしのパーソナルスペースに座りました。なんで、わざわざわたしの隣に座るんだ。ふざけんな。ボケ。と、大変な苛立ちを覚えました。が、このおっさんのために自分がイチイチ席を変えるのも癪だったので、そのまま我慢しました。
おっさんはぶつぶつと世迷い事を言い続けています。ノリスケとワカメがどうのこうのと言ってる途中でいきなり「うんこ!」と言い出したものですから、不意を突かれて思わずプッと吹き出してしまいました。笑った勢いでスマホを落っことしてしまい、勢いよく、おっさんの足元まで転がっていきます。
そのおっさんは屈みこんで、わたしのスマホを拾って、無言でそれをわたしの口元に差し出します。
わたしは反射的に「ありがとうございます」と言ってそれを受け取りました。おっさんはわたしと目を合わせることもなく、再び、ノリスケの悪態をつきはじめます。
わたしはおっさんの意味不明な独り言にイラつきながら、自分自身にもイラつきました。
隣のうざいおっさんを意識する臆病な自分が嫌になって、わたしは目を閉じて眠ったふりをしました。

いつの間にかおっさんの声が聞こえなくなっていました。
目を開けて、隣を見ると、そこには誰も座っていませんでした。あー、せいせいした。と、思いながらも、なぜか、寂しくて。なんで、こんなに寂しいんだろう。邪魔なやつがいなくなって、自由にBL漫画も読めるはずなのに、わたしは下唇をぎゅっと噛んでいました。痛い。心が痛い。でも、本当は心なんか痛くないし、寂しくなんかないのです。心が痛いと思える自分は美しい。そう思いたかっただけです。
わたしは、フーッと息を吐きだして、ポケットからスマホを取り出します。BL漫画を読もうとしましたが、窓から陽の光が差し込んで、ディスプレイが真っ白になって視認できません。ブラインドを下ろすのも面倒臭くて、欲情まみれのBL漫画を見るのを辞めました。
疲れました。
帰ったらオナニーして風呂入って寝ようと思いました。

ビザーマジシャンの現実①

今まで喋ったことは全部嘘です。わたしはビザーマジシャンなんかではありません。

なぜなら、わたしは、警備会社の現場社員だからです。毎年、やらせてくれていた大道芸のイベントに呼ばれなくなって、毎週やらせてもらったマジックの仕事も、全部なくなってしまったのです。この姿は大した才能もないのに調子に乗った手品師の成れの果てです。
でも、別に悔しくはないのです。だって、四十、五十代になって居酒屋やキャバクラでテーブルホッピングの仕事をするというのは、とても惨めなことなのですから。毎月安定した給料をもらい受けている銀座のサラリーマン様にヘコヘコしながらテーブルに入って「おっさんのマジックなんて見たくねーんだよ。シッシ」などと言われてまでマジックなんかしたくないのです。

今、わたしは、オフィスビルの警備室で一人でじっと座っています。このビルは現在、改装中につき、社員さんの出入りはなく、工事業者さんだけが出入りをしています。祝日中もずっと工事なのです。警備の仕事というのは当直勤務というのがあって、わたしの現場は朝九時から翌朝の九時までが勤務時間なのです。仮眠は深夜十二時から翌朝の五時まで。時給は九百五十円。会社員になったからには、やすやすと趣味のマジックをやるためにお休みをくださいとは言えません。ちくしょう。なんで、マジックをやめて会社員になろうと決断した途端に、マジックの依頼が入るのでしょうか? というか、わたしも往生際が悪すぎるのです。手品師なんて綺麗さっぱりやめようと思ったはずなのに、なんでマジックの仕事を引き受けてしまったのでしょうか。お金のため? いいえ、違います。わたしはマジシャンという肩書きを捨てたくなかったのです。わたしはまだ、マジシャンでいたかったのです。だって、マジシャンじゃないわたしなんて誰にも誇ることができないのです。

ボーッとモニターを監視して座っているだけで、いつの間にか、工事業者さんが帰る時間になっていました。十六時三十分です。わたしは業者さんに貸し出した鍵を返してもらいます。鍵の貸出簿に受取時間を記帳します。制帽を被って工事業者さんが全員退出したことを確認してエントランスの鍵を閉めます。通用口から外に出て、駐車場にポールを立てます。駐車場のシャッターを閉めます。館内に戻って通用口を施錠します。保安室に戻って、頬杖をついてテレビの画面を凝視します。

あとは、深夜零時になるまでに二回、巡回すればいいのです。

 深夜十一時。内部を巡回して工事した箇所の窓が閉まっているか確認します。PS室の電気が消えているか確認します。

「あはは、この世界はわたしだけのものだ!」

と、誰もいない真っ暗闇のフロアで、両手を広げてスキップしながら、叫びました。
工事中の館内は、無機質で、まるで廃墟のようでした。絨毯が剥がされて、床がむき出しになっています。LAN配線を通すための白と黒のツルツルしたタイルが丸見えになって、それを踏むとカチャカチャと乾いた音が、真っ暗な室内に響き渡ります。ゾクッと背筋が凍るような感覚がして、それがとても心地よいのです。
こうして、深夜十一時二十四分、誰一人いない館内の最終巡回が終了しました。あとは、保安室の椅子に腰掛けて日付が変わるのを待つだけです。

保安室に戻ってモニターを監視します。仮眠の時間がくるまでジッと。いつまでもモニターを見つめます。
なんのためにこんなことを。なんでこんな訳の分からないことをしているのだろう。生きるために? でも、なんで生きる必要があるのでしょうか? 生きるってなんなんでしょうか? 飯食ってウンコしてSEXして眠ることが、生きるってことなのでしょうか? そんなことをするために、こんな仕事をしているのでしょうか? 嘘でしょ。ねえ、だれか嘘だって言ってください。わたしは自分のことを特別な人間だと信じていました。他の人にはない才能があるって信じていました。だから、みんながわたしのことを愛してくれるはずなのです。でも、だれもわたしをチヤホヤしてくれません。だから、手品を覚えたのです。手品をやってる自分は輝いていました。みんなが褒めてくれました。喜んでくれました。それなのに手品をしなくなってしまったわたしになんの価値があるというのでしょうか。ただの警備員。そんな凡人のわたしなんて、だれも振り向いてくれない。今のわたしはモニターの前でジッと座って呼吸はしているけれど、生きてはいない。生きている気がしない。死んだまま生きている。なんのためにこんなところでモニターを見ているんだろう。飯を食うために? だから、そんなの嘘だって。馬鹿じゃないか。なんだよ、飯を食うために仕事するって。鼻息荒くしてそんなことを偉そうに主張してる馬鹿が世の中にいっぱいいるけど、あいつらなんなんだよ。嘘ついてんじゃねーよ。ただ、惰性で仕事してるだけじゃねえか。今、ここで警備員をしてるわたしは決して飯を食うために仕事をしてるわけじゃなくて、なんか知らんけれどここに座っているだけなんだ。本当は飯なんか食わなくたっていいはずなのだ。死を受け入れる勇気があれば、飯なんか食わなくなっていいのだ。でも、飯を食うことがさも素敵なことであるように思わなければ、バラバラになってしまいそうので、だから、生きて美味しいものが食べたい。シュークリームが食べたい。綺麗な女の人や男の人とセックスがしたい。ゲームがしたい。漫画が読みたい。小説が読みたい。手品道具が欲しい。やりたいことのために、欲しいものを買うために、やりたくないことをやって生きる。でも、わたしに、本当にやりたいことなんてあるのか? 本当に欲しいものなんてあるのか? こんなくだらない仕事を死ぬまでやり続けてまで、やりたいと思えることが、この世界にあるのだろうか。
ない。なんにもない。
憧れていた手品師ですら、やってみたら、そんなにやりたいことじゃなかった。なのに、マジシャンという肩書きを捨てられない。なんで、マジシャンをすっぱりやめられないのだろう。わたしはマジシャンなんかクソだって言いつつ、未だにマジシャンに憧れを抱き続けている。だって、マジシャンって肩書きのもとにマジックをしているわたしは、誰かに褒めてもらえる。手品師で居続ければ、みんなからすごいねって言ってもらえる。わたしはマジック以外に誇れるものがない。わたしはマジックという夢のある職業を捨てられない。

だれか、わたしを殺してください!

テレビに出てるマジシャンへの嫉妬心

「手品師って夢のある職業だよね」

と、毎週出演しているお店でマジックを見せているときにお客さんに言われたことがある。ふとそのときに思ったのだが、夢のある職業ってのは、一体なんなの? お金がしこたま稼げる職業のこと? それとも世間様からチヤホヤされる職業のこと?
どちらにしても、わたしは夢のある職業なんてものを営んでいる奴らをぶち殺したくなる。とりわけ、そんな職業になりたいと思ってる奴に唾を吐きかけたいのだ。

「は? 夢! アホなこと言ってんじゃねーぞ! 何が夢だ! 夢で飯が食えると思ってんのか!」

と、言ってどつき回したくなる。
ちなみに、わたしの両親は、手品師を夢見るわたしに対して、そのような酷いことを言ったことが、ない。
ただの一度も。
なぜ、言ってくれなかったのだろう。一度でも言ってくれれば、マジシャンをやめる理由を、両親のせいにできたのに。両親が「夢なんかじゃ飯は食えない」と言ってくれれば、「ちくしょう。おまえらは何も分かっていない」とありきたりな恨みつらみをぶつけて、その夢を諦めることができたのに。

プロマジシャンとしてテーブルホッピングをやり始めたのは、二十五歳の時だった。初めて入ったテーブルで緊張しながらマジックをしました。酔客が財布を取り出して、「やるよ」とチップをくれた。わたしは興奮した。何と言っても万札。おれって才能あるかも。天才かも。チョロっと手品やってこんなにウケて一万円もチップもらった。千円じゃない。一万円だ。おれの四分間の手品に一万円の価値がある。おれは天才だ。これなら、一生、マジックで食っていける。

しかしながら、それは勘違いというものだ。

仕事が終わって終電を逃して、タクシーに乗りながら、どうしてあのおっさんは一万円もチップをくれたのか考えた。千円だったらまだ分かるのだが、チップで一万円? 芸が面白かったからあげるという金額ではないような気がする。確かにあのおっさんはわたしのマジックに驚いてくれた。社交辞令ではなかったように見えた。しかし、たぶんあのおっさんはわたしの才能に対して、一万を払ってくれたわけじゃない。あの酔っ払ったおっさんは、駅前で募金活動している滑舌の悪い小学生の少年少女が一生懸命に「せーの、募金よろしくおねがいしまーす!」などと言っているのを見て、なんとなくここで見て見ぬふりをしてお金を入れないのは自分が冷たい人間になったようで嫌だからお金を恵んであげよう。千円くらいでいいかなあ。いやあ、千円じゃ大企業の役員であるおれという人間が安く見られるかもしれない。くそっ。一万円。本当は風俗に使おうと思ってたのに。ええい、酔った勢いだ、ほれ一万恵んでやるよ。ありがたく思え! という感じでチップをくれたのだと思うのだ。
そう考えるとわたしはゾッとする。ちくしょう。こんなもんで手なづけられてたまるか。しかし、わたしはチップをもらったとき、反射的に「うわあ! こんなに! ありがとうございます。超うれしいです」と、あどけない笑顔をつくってヘコヘコしてしまったのである。胸糞が悪い。疲れた。本当に。

 

また、テーブルホッピングをしていると、
「どうしてこんなところでやってるの?」
「どうしてテレビに出ないの?」
と、言われることが、ままある。おそらく、テーブルホップの仕事をしている人のほとんどが言われたことのあるセリフだろう。そして、そのセリフには、次の言葉がセットになっている場合がある。

「将来、テレビに出て活躍してね!」

うぜえんだよ。テレビ、テレビって、なんなんだよ? わたしはテレビが嫌いだ。あんな画面のなかでマジックをやることが、どうして活躍するということになるのだ。世間のみなさんに自分のことを認知されることが活躍するということなのか? ふざけんなバーカ。ああ、でも、わたしはテレビに出たい。テレビに出て、みんなにチヤホヤされたい。テレビに出ててすごいね。って言われたい。握手してください。サインくださいって言われたい!

なんてね。なんちゃってね。アハハ。あほらし。

そして、いつの間にか三十三歳になっている。はははは!

マジックにおける種明かしについて

このわたしが手品界(パライソ)を見限った以前の話をしよう。

その頃のわたしは、ただのテーブルホッパーであった。マジシャンらしい衣装を身に纏い、「こんばんわあ、手品師のアリスでーす」なんつってヘコヘコしながら居酒屋やキャバクラのテーブル卓を回っていた。

なんどもテーブルを回っている内に、「テレビで手品のタネ明かしを見たよ。それはいくらなのか?」と訊かれたことがある。ちなみに、訊かれたのはアンビシャスカードをしたときのことである。正直、「おほほ、嬉し」とわたしは思った。というのも、この手練のみのマジックが、売ってる手品と勘違いされたからである。わたくしのテクニックに値段がつけられた。そんなふうに錯覚したのである。

まあしかし、実際にサイキックボルトかなんかの売りネタについて、それどこで売ってるの? と、訊かれたこともある。テーブルホッパーの手品師ならこの問いに対して「東急ハンズで3860円」などとデタラメをスラスラと答えるだろう。相手はここで笑う。そして、これで良いのだ。

何を言いたいのかというと、マジックを居酒屋やカラオケ店などでエンターテイメントとして演じる場合は、テレビで種明かしされようが、売りネタだとバレていようが、それ自体はほとんど問題にははならないのだ。

ステージイベントなどで度々演じられるドリームバッグなども、一部のクソガキに「あれは〇〇してるんだよ」などと大声で指摘されたこともあるが、演技の支障になったことは一度もない。こういった場合で支障になるのは、子供たちに特攻されて道具を奪い取られて演技が中断される場合のみである。

営業のプロマジシャンにとってはテレビで手品の種明かしをされるというのは大した問題ではない。そのことは、おそらくプロのみなさんたちが身を持って知っていることだろうと思う(ただし、倫理として良いか悪いかは別である。倫理というのは大多数の利害によって善悪が振り分けられるからである。ちなみにわたし自身は倫理を度々無視する傾向がある)。

とはいうものの、手品師が自らタネを明かすことに関しては、【本人にとって】リスキーな選択ではある。なぜなら、その時の観客の演技の見方が固定されるためである。たとえばカードのテクニックを演技中にあえて明かすとする。その場合、次のマジックを演じた時に観客は「裏ですごいことをやってるのを楽しむ」という視点のみで演者を評価することになる。こうなると、手品としての楽しみ方の幅が少し狭くなる。ただ、これが功を奏する場合もある。というのは、面白さを一点に絞ることで観客自身が、どこを評価すればいいのか明確になるので、見ていて安心して演技を楽しめるというケースもあるからである。また、観客の中には「すごいテクニックを評価したい」という人も結構いたりするので、種明かし後のマジックが極めて有効な場合もある。

しかしながら、わたしの求めるビザーマジックを演じる場合、種明かしは禁忌である。なぜなら、種があると思われた時点で、観客を神秘思想に洗脳できなくなるからである。前に書いた記事にも述べたが、ビザールというのは現実と虚構の境界を破壊するものでなければならない。「この人の手品は仕掛けを使ったり、テクニックを駆使している。超常的な能力ではないんだ」と、思われたらおしまいなのだ。

ビザールは観客にこう思わせなければならない。

【この人が手品と称して演じているものは果たして本当に種があるのだろうか? 実は魔術なのではなかろうか】

これである。ちなみに、こういう演じ方においては、長崎にある四次元パーラーのマスターが実にうまいことやっていやがる。

以上のことから、大多数の人類の視点から言えば手品の種明かしをするというのは倫理的に良いことなのだろう。

なぜなら手品を知らない多くの人々にとっては、その不思議な術の答えを知ると心の安定を保てるからだ。

人間は本能的に理解できないものを恐れる。

だから、得体の知れない術を行う者たちに対して「本当のことを言え!」と攻撃的に迫るのだ。

前にも言ったが、その結果が魔女狩りであり、『妖術の開示』が出版された経緯だ。

つまり、種明しを禁忌とするわたくしのビザールは、大多数の意志に反するもの。つまり、倫理を破壊するものだ。

ビザールは人間を混沌に陥れるのが目的だからである。

そういうわけだから、マジシャンの中でたびたびに行われる種明かしが是か否かという議論については、不毛なことであるかもしれない。そこには、答えはない。

そもそも、すべての善も悪も人間の妄想である。

オスカーワイルドも言っている。

『善人はこの世で多くの害をなす。彼らがなす最大の害は、人びとを善人と悪人に分けてしまうことだ』

すべてのマジシャンたちよ、善悪の彼岸を求めよ!

そもそも、ビザールというものは。


なにも、鼻に釘を刺して血を吹き出したり、針を飲み込んで喘ぎのたうちまわることがビザールというわけではない。

真面目な人はその現象の形態様式がおどろおどろしければビザールと思っているのかもしれないが、それは単なるこけおどしであって、としまえんのお化け屋敷のようなものである。こういったものはわたくしの目指すビザールとは程遠いものである。

そもそも、わたくしの理想とするそれは人をエンターテイメントとして楽しませるものではない。真のビザールは、世界の滅び(=死)を『救い』として享受させるものでなければならない。仏教でいう渇愛という考え方が、それに近いのではないかとわたしは考える。

五感を刺激したい。存在したい。破壊したい。この三種の欲求が、渇愛というものらしい。
生と死は表裏一体だ。痛みは生存を感じるために重要な機能であり、破壊は生を求めるがゆえに行う衝動なのだ。

マーラー交響曲第2番『復活』の最終楽章の詩にはこのようにある。

 

Was entstanden ist, das muss vergehen.

生まれてきた者は、必ず滅びなければならない。

Was vergangen, auferstehen!

滅び去った者は、必ず復活する!

Hör' auf zu beben!

震えおののくのをやめよ!

Bereite dich zu leben!

生きるための準備をせよ!

Mit Flügeln, die ich mir errungen,

私が勝ち取った翼によって

werde ich entschweben.

私は舞い上がるだろう。

Sterben werd' ich, um zu leben!

私は生きるために死ぬのだ!

Aufersteh'n, ja aufersteh'n

復活する! そう復活するのだ!

wirst du, mein Herz, in einem Nu.

汝、私の心よ、  一瞬のうちに

Was du geschlagen,

汝が打ち倒されることこそが

Zu Gott wird es dich tragen!

汝を神のもとへと運ぶことになるのだ!


注)http://classic.music.coocan.jp/sym/mahler/mahler2text.htmから引用

 

死に至るような極限の苦痛は、その人に究極の喜びを与える。人間の脳は死を受け入れるために、苦痛を幸福に変える。生という錯覚のために、その死の苦痛を快楽に転倒させる。人間はその瞬間にこそ、『存在している』という実感を得るのだ!

よって、わたしたち人間は、死ななければ生を感じることができないということだ。

だからと言って、人を救うために他人を殺せとか言っているのではない。

思い上がるな!

人は人を救うことなどできない。死は究極的に孤独だ。自分だけがただ一人、死の前に立って全ての答えを知る権利を得るのだ。死はわたしだけのものだ。わたしを救いたい思うものは愚かだ!

重要なのは、死の本質を残酷なまでに直視することである。死にたくないと叫ぶ姿を侮辱してはならない。切腹をするサムライのように、死に様を格好つける必要はない。他者からの視線を意識した死は無意味だ。それは死の本質を見誤っている。死というのは全てをゼロにする。その人の外見も。中身も。重力も。善も悪も。愛も。罪も。すべての存在と時間をゼロにする。そこに絶望してはならない。ビザールはその絶望の先にあるはずだ。